築城した寺沢広高は関ケ原の戦いで東軍に組した所謂外様大名ですが、功績により十二万三千石にまで加増された大大名。
秀吉の死後、廃城となっていた名護屋城の資材を築城に再利用し、建設の際には九州の多くの大名が加勢したと言われます。
しかし、外様の宿命、二代藩主堅高の時に起こった天草四郎の乱を抑えきれなかったとしてお家は断絶、代わって播磨国明石城主だった大久保忠職が城主として入城します。ここでも播磨と繋がってるんです。
唐津市のどこからでも見えるお城、天守閣は昭和41年に復元されたものですが、半世紀を経て色合いも落ち着き、威風堂々としています。