私は運動が苦手なのですが、なぜか剣道をやっています。

稽古の前に正座をし、目を閉じて座礼。そして面を付け、相手に向かって無心で打ち込む。

武道ですから、強いも弱いもない。相手に礼を尽くしてひたすら打ち込む。打たれるのは自分の心が弱いから。そう剣の道は精神修行です。

 幕末までは「剣道」という言葉はなく、「剣術」と呼ばれていました。江戸時代は太平の世とは言え、剣術は侍が相手を殺す術には変わりなく、多くの流派が乱立しています。

その後、明治の帯刀禁止令で武士階級が消滅し、剣術を磨く意味がなくなりました。

この頃から真剣は木刀や竹刀に、また、明治の頃には剣の修行には精神論が加わります。

そして大正元年(1912)、乱立していた各流派の形が統一され、現代「剣道」の基礎が成立したと言われています。

 

 と前置きはここまで、今回は「二天一流」という二刀流を完成させた武蔵の激闘の地を旅します。

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絵馬『巌流島の決闘』(岡山県美作市 武蔵神社)
 今も語り継がれる佐々木小次郎との決闘。武蔵は櫂を削った木刀で一刀のうちに倒したと言われます。
 武蔵が書き記した『五輪書』によれば、播磨国に生まれ(諸説ありますが)、幼くして剣の道へと進み、生まれて初めての立会は新當流の有馬吉兵衛という者だったと。この立会の場所は佐用町平福、今も一騎打ちに相応しい雰囲気が漂います。しかし、すごいのは武蔵の年齢、この時なんと十三歳。今で言う中学1年生が一刀のうちに大人を打ち負かす。すごいことです。
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宮本武蔵幼少期像(熊本県 島田美術館蔵)
 眼光鋭き幼少期の武蔵。初決闘(13歳)の頃を描いたもの。(島田美術館絵葉書より)
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武蔵初決闘の場(兵庫県佐用郡佐用町平福)
 13歳にして初めての決闘。勝負は一瞬、一刀のうちに倒した言われます。
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『武蔵血闘の場』碑
 武蔵の初決闘を伝える石碑です。

 武蔵の修行は続きます。たつの市にある圓光寺には武蔵が創始した「圓明流」の印可状が残っており、この寺で剣術指南していたことが伺えます。

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圓光寺(兵庫県たつの市)
 武蔵が駐留し、圓明流を指南したと言われます。
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圓光寺本堂
 開祖は蓮如上人の弟子、多田祐全。「文明道場」と呼ばれていましたが、豊臣秀吉より寺領を賜り「圓光寺」となります。
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『宮本武蔵修練の地』碑
 圓光寺境内に建ってます。武蔵はここで3年もの間、修練を重ねた言われます。

 そして二十一歳で上京、当時天下一と言われていた吉岡道場の一門と争い、これを打ち負かします。映画やテレビドラマでは、武蔵の村宇井の強さを表現する場面として有名な『下り松の決闘』です。

 映画では何十人もの門弟を一人で切り捨てますが、実際は高弟3人を打ち負かしたと言います。


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八大神社(京都市)
 武蔵は蓮台寺、一乗寺下り松、三十三間堂にて吉岡一門と戦います。
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宮本武蔵像(八大神社境内)
 吉岡道場との争い、武蔵21歳。
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下り松(八大神社境内)
 今は朽ちてしまった松ですが、樹体が保存されていました。

その後も武蔵の修行の旅は続き、剣術指南役として各地を放浪、名声を高めていったと思われます。

そして二十九歳(諸説有り)、小倉藩の剣術指南役であった佐々木巌流(小次郎)との死合。かの有名な「巌流島の決闘」へと続きます。

わざと決闘の時刻に遅れて小次郎をイラつかせ、鞘を捨てた小次郎に対して、「小次郎破れたりっ!」と言い放ち、そして刀ではなく櫂を削った木刀で一打ち!!と言ううのは映画の話!!

実際は武蔵は己の名声、小次郎は小倉藩の威信をかけたお互い一歩も引けぬ闘いだったのでしょう。

 

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巌流島
 正式には舟島と言います。勝負に負けた佐々木巌流小次郎(小倉藩の剣術指南役)の名前から巌流島と付けられています。
 
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巌流島の浜にある小舟
 小説『宮本武蔵』のイメージどうり小舟が置かれていました。
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巌流島のモニュメント
 武蔵と小次郎の決闘を今に伝えます。
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巌流島決闘の地
 「昭和の巌流島」と言われたアントニオ猪木とマサ斎藤のデスマッチの地!!プロレスファンにはたまりません!!!

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「巌流島の決闘」像(巌流島)
天正十二年(1612)、この地で世紀の一戦が行われました。
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小次郎
 中条流 佐々木小次郎。この時、小次郎は小倉藩剣術指南役です。
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武蔵
 圓明流 宮本武蔵。この時29歳と言われます。
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武蔵愛用の木刀(霊巌洞展示室)
 巌流島の決闘で使ったと伝わる櫂型の木刀です。
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小倉城にある決闘像
 小倉城天守閣のリニューアルに伴い、平成31年に建設されています。
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「巌流島の決闘」像
 こちらは櫂ではなく、二刀で戦う武蔵。

 武蔵の生涯や激闘の記録は養子である宮本伊織が建てた『小倉碑文』に記されています。

生涯無敗、「剣聖」とも呼ばれた宮本武蔵。長年の真剣勝負で彼があみ出したのが「二天一流」という大小二刀を巧みに操る刀法。

しかし、「二天一流」の本当の意味は一つの事を極めるためには他の物事にも見識を持ちなさいと言う事。奥が深い意味合いです!!

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小倉碑文(福岡県北九州市小倉 手向山)
 息子宮本伊織が建てた武蔵の生涯を記した石碑。

今の剣道界にも二刀の剣士はいますが、とても私にはマネはきない