九州人にとって宮本武蔵と言えば熊本県なんです。最後に仕えたのが熊本藩であり、武蔵終焉の地。死期が迫り、山中の洞に籠って『五輪書』を書き上げたことでも有名です。だから全国の少年剣士が集う大会として、『宮本武蔵旗 全国小・中学生剣道大会』なんかもある。
ということで、最後は九州のお話しです。
九州人にとって宮本武蔵と言えば熊本県なんです。最後に仕えたのが熊本藩であり、武蔵終焉の地。死期が迫り、山中の洞に籠って『五輪書』を書き上げたことでも有名です。だから全国の少年剣士が集う大会として、『宮本武蔵旗 全国小・中学生剣道大会』なんかもある。
ということで、最後は九州のお話しです。
武蔵の戦歴のうち、最後の戦いと考えられているのが寛永十四年(1637)に起こった「島原の乱」です。50歳過ぎて中津藩の客分となっていた武蔵は中津藩の小笠原長次に従軍し、一揆衆の鎮圧に加わっています。このことは親交があった延岡藩主有馬直純に武蔵自身が送った書状に認められており、原城において一揆衆の投石により怪我をしたと書いてあるそうです。剣豪でも飛び道具(投石)には適わないって事です。
武蔵は熊本藩の細川忠利からの求めに応じて客分となり、中津藩を後にします。熊本に移った武蔵は千葉城内に居宅が与えられ、ここで剣術や兵法を伝授します。このとき57歳。
また、忠利に依頼により『兵法三十五か条』を記して献上していますが、忠利死後六十歳になっていた武蔵は金峰山の霊厳洞と言う岩穴にこもり、自身があみ出した「圓明流」を発展させた「二天一流」の奥義や自身の兵法感をまとめた『五輪書』の執筆に取り掛かります。
『五輪書』は地、水、火、風、空の五巻からなり兵法感や二刀流の太刀筋を記したものですが、この中で人間形成の道までも説いており、これが今の社会を生きて行く上で通じるものがあるとして受け入れられ、多くの人に愛読され続けています。
執筆後、正保二年(1645)に武蔵はその生涯を終えます。62歳、まさに生涯を剣に奉げた武人です。
播州から始まり、京都、周防、九州とその一生を闘いに奉げ、人生の集大成として『五輪書』を書き残す。そしてひっそりと武蔵塚(熊本市北区)に。
いや~、ほんと凄い人だ!!
人生、かくありたい。