所用で帰福。ゴールデンウィークでもあり、のんびりと国道2号線を西下、マイカーで約10時間の行程でした。
 「国道2号線」は、7世紀に整備された「古代山陽道」がその元、近世期でも「西国街道」と呼ばれていました。今も昔も変わらず、西日本を貫く大動脈ですが、やはり九州までは遠い。
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西国街道(姫路市青山)
「古代山陽道」を元に整備された近世道路です。
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真っすぐに伸びる西国街道
今も近世の雰囲気が残ります。

 福岡到着後、久しぶりに国史跡「元寇防塁」に立ち寄ってしばし休憩。この地は鎌倉時代の国難、元寇の激戦地。
今から750年ほど前、文久十一年(1274)十月に中国の元が日本に侵攻した「文久の役」が起こります。元・高麗連合軍が九州沿岸に押し寄せ、圧倒的な兵力と火力によって、一時、博多湾沿岸部占領されたと言います。
この戦い、苦しみながらも何とか元軍を退けた鎌倉幕府の時の執権、北条時宗が次戦に備えて命じたのが「石築地」、防塁の建造です。博多湾沿岸部に延々20㎞に渡って築かれた防塁は、高さ2.5m~3.0mもあります。
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「史跡 元寇防塁」(福岡市西区)
柵内(指定地)は立入禁止。
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指定地の高まり
この下に防塁が埋まってます。
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防塁露出部分
実際は、この上に高く石が積まれます。
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調査後に復元された防塁
高さが2m以上あります。
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史跡内の説明版
『蒙古襲来絵詞』が陶板として展示されています。
 また、「石築地」建造と同時に行われたのが「筑紫大道」(つくしおおみち)と呼ばれる古代山陽道の再整備工事。
当時、朝廷ならびに西国を監視した役所が置かれていたのは京都の六波羅探題であり、有事の際、600㎞も離れた西国九州といち早く連絡を取り合うためには道路整備は最重要課題だったはず。
 大道完成後、弘安の役(1281年)の際には馬を走らせ六日ほどで連絡が届いたとの記録が残されています。まさに国家の威信をかけた大型道路整備だったのでしょう。

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六波羅蜜寺(京都市)
六波羅探題跡地に建つ真言宗の寺院。西国三十三所第十七番札所です。


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六波羅蜜寺前の辻
画面手前に進むと五条通り。西へ折れると九州へと続きます。


実際、太子町やたつの市で発掘された筑紫大道は幅6m~8mを測り、路面は砂や小石を混ぜて突き固められていたそうです。そう、古代のアスファルト施工。
「筑紫大道」は、今で言う「国道2号線」いや「山陽自動車道」と言っていいものです。
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筑紫大道(たつの市誉田町福田)
国道2号線と平行しています。
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東側(六波羅探題方面)を望む。
元寇の際、九州から早馬が。
遠いといっても九州までは車で半日足らず、これも「筑紫大道」の再整備があったればこそ!!